傷ついた事は忘れるのではなく、心の片隅に置く
――前回の続き。
2回目の治療を終えても痛みは治まらなかった。
この医師はとにかくよく笑う。
「ワハハッ」と大笑いする訳ではなく、常に穏やかに微笑んでいる。
しばらく会っていなかった為、私はこれまでの経過と、今回の歯の痛みへの対処を相談した。
すると医師は、歯の原因が何かは分からないが、もし精神的な原因であるなら、抗不安剤の中で痛みへの効果があるものを指差した。
「これを試してみてはどうですか?」
説明を聞くとなかなか良さそうだった。
薬は決まり、普通ならすぐに診察を終えるのだが、この日は珍しく少し話が続いた。
これで治りそうだと気分が楽になった反動で、私の方からペラペラを話をしたような気がする。
「体調不良や悩みばかりで、このところずっと落ち込んでいたんです。でも大した事ではないんだし、何もかも忘れようとしてたので、最近はあまり悩んでいなかったんですよ」
だからそれ程精神が病んでいる自覚はないんですけど…と続けようとした時、いつになく医師は真剣な目になって、
「忘れようとしちゃダメですよ」と言った。
「え?」
不意を突かれたような言葉で胸がドキッとした。
「忘れようとしちゃダメです」医師は繰り返し、「そういう事は何度も繰り返し聞かれますよ」と続けた。
よく意味が分からず「え?どういう事ですか?」と聞きながら、自分が息苦しくなっていくのが分かる。
「カウンセリングなどでは、傷ついた事や、その記憶を何度も本人に聞き、その時どう思ったのか?どう感じて、今どう思っているのか?何度も繰り返し聞きます。その事実を忘れようとするのではなく、それはそれとして頭の隅に置いておくのです」と医師は語った。
この医師が笑顔なしで真剣に語るのを初めて見た気がする。そして、心に触れる会話をするのも初めてだった。
ここではいつも軽く症状を説明して薬を処方してもらうだけだったから。
でも私は心に入ってこられるのが苦手だ。
医師は、いつもの穏やかな口調に戻り、「その記憶は片隅に置き、残りの部分で好きな事をやってストレス解消をしたりすれば大丈夫。 きっと良くなっていきますよ」とニッコリ笑った。
私は何か一歩心に触れられたような感覚になり、それまで必死に作っていた「大丈夫な私」が崩れかけた。
「ストレス解消…って、もうどうすればいいのか分からなくて」
言葉に詰まり目に涙が浮かんできた。だめだ、理性を取り戻せ、と必死に我慢する。
その私の様子に当然気付いていたであろう医師は、ニコニコと笑いながら言った。
「私なんて食べる事と寝る事ですよ。だからこんなに太っちゃったんだけどね」と言い、またいつもの様に笑いながらポッチャリした体を自分でつついた。
私はなんだか胸がいっぱいになり、ただ一緒に笑った。
その日から心療内科でもらった薬を服用してみたが、痛みに対する効果がどうこうという以前に、とにかく眠気が酷い。
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