10年日記
最近書店や雑貨屋に行くと、来年のカレンダーや手帳、日記帳が多く目に付く。
私は過去に一度、「10年日記」という物を買った事がある。
まだ自分が鬱だと自覚する前の事だ。
その頃、日々どんどん体調が悪くなり、心もズッシリ重い。そして人と会う、職場に行くとなればそれは更に悪化し、腹痛や吐き気、大量の汗に震えが酷かった。
物凄く嫌な出来事があった訳でもなく、嫌な人と会う訳でもない。なぜこんな風になってしまったのか原因が分からなかった。
しかし私は鬱病ではない。そう言い切っていた。体調は悪いが、心はそれほど病んでいない。
鬱病になる程の辛い出来事に直面していないのだから鬱病になるはずがない、ずっとそう思い込み、心療内科などの病院に行く事もなかった。
だがある日、一人の心理カウンセラーと会う事となった。
鬱ではないと思いながらも、このままでは日々辛い。どうにか楽になりたい。そんな気持ちはあった為、ネットで調べて良さそうだったカウンセラーの所に行ってみる事にしたのだ。
結果的にそのカウンセリングは効果があるように思えなかったが、カウンセラーの雰囲気が良かった為に、数回通った。
今から思うと、とても心の内面を引き出すのが上手いカウンセラーだったように思う。
カウンセリングって、一体何を話せばいいの?今体調が悪い事は悩んでいるけど、それ以外の悩みはないのに……と最初はそう思いながら行ったのだが、いざ会話していると、いつの間にか自分でも自覚していなかった心のずっと奥の苦しさを話していた。
こんな深い話をする相手はいなかった為、他人にそれを話せただけでも私にとっては救いだった。
そしてそのカウンセラーに勧められたのが、
「日記をつけてみませんか?」という事だった。
心の内を書く訳ではない。
その頃毎日辛かった吐き気等々の状態を、箇条書きで書いていくというものだった。ある意味カルテみたいなもの。
そして、小さな丸いシールをたくさん貰った。
カウンセラーは、「これを、その日の体調レベルの数で日記に貼ってみて」と言った。
「今日は体調が凄く悪いからシール5つ、今日は昨日より少しマシだからシール4つ、みたいな感じで」と。
自分の小さな変化を知る事で、前に進めるきっかけになるという事らしい。
何だか面倒臭い気もしたが、とりあえずは指示通りにしてみようと、日記を買いに行った。
丁度それが今と同じ11月頃だった為、書店にはたくさんの日記が山積みになっていた。
そして目についたのが「10年日記」
1ページに10年間分の、同じ日付が印刷されている。
今日の日記を書く時に、昨年の同じ日の自分、一昨年の同じ日の自分が一目で分かるので、10年間で自分がどう変化していくのかが分かる。
「これは良さそうだ」
そう思い、その「10年日記」を買う事にした。
そこから日記を書く日々が続いた。カウンセラーに渡されたシールは1ヶ月程でやはり面倒臭くなり(というか毎日不調で常にシール5つで代わり映えしなかった)、それは早くもやめてしまったが、日記を書く作業は1年以上続いた。
しかし二年目に入り、いよいよこの「10年日記」の良さが発揮される時が来た時、書く気を失った。
今日の日記を書こうとすると、上の段に昨年の同じ日の自分がいる。
そしてそれが今から書こうとしている自分と何一つ変化していない。相変わらず体調が悪くて気分が重くて、シールを貼るとすれば今も5つだった。
「10年日記」とは自分の変化を見て楽しめるものだと思ったが、変化していない人にとっては辛いものだと知った。
私はこの1年間何をしていたんだろうと、後悔と焦りの感情がうまれるだけ。
これが10年間続けば、どれほど自分が情けなくなるか想像できる。何も変化していない自分を見続ける勇気がなかった。
今もその日記は捨てずに置いてある。9年分は空白のままで。
しかし今はまたその日記とは違う形でこのブログを書いている。
誰にも見せる事のない日記と、見知らぬ誰かが読んでくれるかもしれないブログ。
同じ書くのでも気持ちが違う。
やはり私は誰かに聞いて欲しい。自分だけが読む日記は更に自分を孤独にさせる。
ほんの少しでも読んでくれている人がいる、分かってくれている人がいる、と時々でも実感できるこの場所が救いになっている。
本来のコメント欄をオープンにして意見交換を頻繁にする程の距離感は苦手。
だが、それでも小さくメッセージを受け付けるページを残しているのは、やはり時々誰かに何か言って欲しいという願望があるからだ。
最近は特に共感や励ましのコメントを頂く事が多い。
一つ一つ丁寧にお返事が出来ないのが心苦しが、ちゃんと私の心に響いている。
いつもありがとう。
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