すっぱい葡萄を望まない

別ブログで紹介したが、久々に心に残るドラマを観た。
良かったとか感動とか…そういうのではなく共感。
頑張らないなら本気じゃない
ドラマの詳細は別ブログの方を読んで頂きたいが、このドラマの中では後半、主人公の女性が不妊治療の病院を受診するシーンがある。
そのシーンを見た時、私は自分が同じように不妊治療専門医の元を訪れた時の事をリアルに思い出した。
まさに私もこの主人公と同じ事を医師に言われたのだ。
「あなた、本気で子供が欲しいの?」
私を担当した医師も女性で、こちらの話をゆっくり聞くという雰囲気ではなく、次々と一連の検査が行われ、「はい、では次の予約は?」「すぐに体外にしますか?」と矢継ぎ早に聞かれ、こちらの気持ちが付いていけなかった。
そして私が「まだそこまで考えていなくて…」とモゾモゾすると、女性医師は明らかにイラついた顔をし、「やる気があるの?」と私に言った。
医師やスタッフ、何時間もの待ち時間を我慢している他の患者達にとって、中途半端な気持ちで来られた人間は迷惑なのだ――そう感じた。
子供が欲しくてたまらない本気の人達がそこにいた。
私は数回通院しただけで、その後は通わなくなった。私の行くべき場所ではないと思った。怖かった。
だがドラマでも言っていたように、「子供が欲しいならどんな事をしても当然」「頑張らないなら本気じゃない」皆がそれを当たり前だと感じていて、そう思えない自分が既に世間とはズレていると思った。
その人なりの頑張り方がある。
だがなかなか世間はそれを認めてくれない。
仕事もしない、子供も産まない
また、このドラマの中で主人公の母親が、「仕事もしない、子供も産まないでは向こうのご両親に申し訳ない」というセリフがあった。
痛い痛い痛い。
とにかく観ていて母親のセリフが痛かった。
私も母から常日頃言われている。
「他の人達は子供がいても仕事をして頑張っているのよ?あなたはもっとデキルはず」
どんな生き方をしようが、自分が良ければそれでいい…ではダメなのだろうか。
世間の常識に沿うように生きなければいけないのだろうか。
「子供がいないから仕事に生きているんです」
親がそう堂々と言えるような娘になれなかった。
それでも心のどこかで、今の私でもいいと親が認めてくれる事を願っている自分がいる。
すっぱい葡萄
ドラマの中で、すっぱい葡萄の話が出てくる。
――キツネが高い所にあるブドウが食べたくて何度か跳び上がる。しかし、届かない。そして最後には、「あのブドウはまだ青くて食べられないや」と言って去る――
考え方の切り替え。又は負け惜しみとも言える。
出来ない事をいつまでもクヨクヨせず、「出来たところでどうせ大した幸せでもないだろう」と自分に言い聞かせる。そう思えるように気持ちを切り替える。
それが出来ればどれ程気が楽になるだろう。
さらに「出来ていたらきっと幸せだろうけど、出来ていない今もそれ以上に幸せだから満足」と言えるようになれば完璧。
そう心から思える日が来るだろうか。
たとえそれが負け惜しみだったとしても。
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